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はるかな碧い海〜私のスピリチャルライフ 宮迫千鶴著 |
迷わず買うという本は、少なくなった。良書にあっては、本ほど安いものはないと思うし、駄本に出会うとまったく悔しい思いをする。本書を地元の小さな書店で見つけたときに、並べた店主の鑑識眼に敬意を表しながら、躊躇なく買った。
内容は期待を大きく上回り、著者が3年の歳月を捧げたにふさわしい好著である。宮迫千鶴という画家であり詩人であり、エッセイストである人物が、まずはその魂の根底において神秘家であったということがよくよく再確認できた。絵画であれ詩であれ、(⇒p.6) エッセイであれ、彼女にとっては、その魂に去来することごとの表現であり、この自伝的なエッセイもそのひとつに他ならない。
ひとは医者になろうと思えばなれるかもしれないし、画家にも、小説家にもなれるかもしれない。職業の選択は、そこに必要とされる努力をいとわなければ今日の日本では大きな限定や不可能はないだろう。しかし、神秘家となると話は別だ。
神秘家を志しても、ひとはその霊性を獲得することができるとは限らない。神秘に興味があるということと、神秘家であるということはまったく違う。それは、ゴッホの絵に感動することと、ゴッホがあの壮絶な苦悩のうちに、買い手のいない絵をまるで、修行のように描き続けることがまったく質を別にするのに似ている。また、ひとは信仰をもつことはできるだろう。しかし、神秘家であるということはそれとも質を異にする。
著者も、自らが神秘家であることなど意識していなかったろうし、本書を書き上げるに至るまで自らに託された「神託」を読み解くことを拒絶していたようなふしすらある。しかし、今の彼女は、自らが神秘を生き、そこに見たものと、そこにいつも顕現していることを世につたえる責務があることを否定はしないだろうし、本書は、それを甘受した証でもある。
神秘には、たしかにひとを魅了する何ものかがある。神秘に興味があるに過ぎない者は、声高に神秘に遭遇した自分を語るだろう。その者が、己れを語るとき、神秘は沈黙する。神秘家は己を語らず、神秘そのものの顕現だけを願う。神秘家の無私は、自己の存在と言葉と経験をすら、神秘がその姿をあらわにするための道具として捧げる。ドイツ中世最高の神秘家であるマイスター・エックハルトは、「われわれが無になればなるほど、神がそこを満たす」といった。「批評とは無私を得んとする道である」と小林秀雄はいった。著者は、この霊性の道行きを書くことが「無私を得んとする道である」ことをどれほど願ったことだろう。その試みは成功し、読後には、著者の姿は、われわれの傍らにあり、はっきり見えるのは、著者に顕現した広く美しいこの世界なのである。神秘は別のところにあるのではない、今、ここ、この世こそ、神秘の働く場であり、われわれが神秘と出会う場所なのである、そう著者は言っているように思われる。
この世においても、死者の精霊はいつもそばにいて、われわれを見守っている。ときにその力は、必要があれば、生者の肉体を借りて現れることもある。われわれは、地球数十億年の歴史をこの肉体に記憶し、いつでも用いることができる状態にある。しかし、それにはいくばくかの努力が必要で、それに耐えた者のみが用いることができる、この厳しい現実を否定するために、神秘などないといっても始まらない。それはあたかも曇った空を見て、太陽がなくなったと騒ぐ愚人にも似て、益なき営みだろう。
「思えば父の死から始まった『加藤清というシンクロニシティの旅』は、十二年という歳月をへてここまできた。シャーマンに出会い、霊媒を通して語る『霊』に頭を抱え、疑いつつスピリチャル・ヒーリングの研修に参加し、時計と反対周りと指摘されたオーラの渦巻きに困惑し、『霊界からの医師』に驚き、不思議な予知夢を見たり、霊能者を通して、前世を指摘されてびっくりしたという奇妙な旅だった」(本書 308ページ)
加藤清のことをここで触れる紙幅をもたない。この医師の特異な存在と働きは本書をご覧いただきたい。シンクロニシティ、シャーマン、霊媒、予知夢、心霊手術、オーラ、前世をめぐる出来事は幾度となく本書に出てくる。しかし、それらの出来事は、人間を超える、ある大いなるものの働きであることに変わりなく、その現象ひとつひとつについてはコメントする意味を感じない。それは著者も同感であろうし、著者もこれらの不思議な出来事が連続的に、自らの人生を去来する意味にこそ重大な秘密が隠されているということが明らかだからこそ、自伝というかたちで本書を書いたのである。
この点を見間違えてはならない。不思議なことは誰の身の上にも、毎日起こっている。それを意識的に自己の経験として深化させるか否かは、経験するものにかかっている。
最後にどうしてもふれておきたいことがある。筆者は本書を迷わず買ったのは、書店である一章を偶然開いたからだ。「若き詩人との別れ、家族という痛み」と題されたこの一章には、田村奈津子という詩人の別離が書かれてある。癌に侵され、40歳の若さでこの世をあとにした詩人への鎮魂の章は、本書のうちでも特に秀でている。田村奈津子は、数冊の詩集のほかに、編集者としてもいくつも良書を残して逝った。
生と病と死が凝縮された著者宮迫と田村との出会いと人生の劇は、読むものにある真実を告げ知らせるだろう。闘病記を書いたらとすすめる宮迫に、田村は「そういうものを読みたいですか?」と微笑み答えたという。この一言で、もう十分だ。病とともに生きるものの真実の声が、この一言に不足なく現れている。そこには孤独と苦悩と痛みがあり、そこを生き抜いたこの詩人の軌跡が、われわれの救いとなり、慰めとなるのである。本書を読んだあと、田村奈津子の詩集を2冊続けて読んだ。筆者は、この詩人とは生前に30秒にも満たない邂逅しかない。また今度ゆっくりと、と慌しく話したことを今も忘れることができない。本書で、詩人宮迫千鶴は30年ぶりに詩を書き田村奈津子に捧げている。(若松 英輔)
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